CHAPTER 17
カトマンズの夜
エベレスト・ネパール
2025年、壱岐で働き始める前に、エベレストのベースキャンプへ向かいます。そもそものきっかけは、さらに前の熊本時代にあった。
話は、2012年ごろにさかのぼります。熊本の動物園で働いていた頃です。
その頃から「起業」に興味があって、県主催の生涯学習の講座を受講していました。その講座が終わったあと、同じ建物の、同じ階のロビーにいたのが、池田親生さんでした。竹あかりの作家です。私は彼のことをまったく知らなかったし、接点もありませんでした。
ただ、オーラが異様だったんです。私は普段、オーラを感じるような人間ではありません。後にも先にも、「オーラ」として明確に受け取ったのは、彼だけです。ギラギラして、鋭かった。太陽を直接見るような、痛い鋭さでした。そこで目にしたのが、「竹あかり」という文字と、彼の名前でした。
当時の私には、近づくことはおろか、直視することもできませんでした。一瞬目撃して、逃げるように距離をとった。
接点は、それだけです。言葉ひとつ交わしていないし、目すら合っていません。でも12年後、私は彼の存在を、鮮明に覚えていました。
12年後のある日、よく知る知り合いが、彼の出版記念トークライブをするとSNSで発信していたんです。「あの親生さんだ!」。衝撃でした。12年越しの再発見です。
定員10名ほどの、とても距離の近い会だったので、迷わず参加しました。“あのとき”の彼が、今の私にはどう映るんだろうか。彼はどんな人なんだろうか。興味本位でした。
行って感じたのは、「オーラがマイルドになった。優しくなった」でした。相変わらず強い光を放ってはいるけれど、彼の本質が「祈り」であることがわかって、少し馴染んだ感覚がありました。
それから間もなく、彼がSNSで、数年前にエベレストで亡くなった登山家のご友人――栗城さん――の話を始めたんです。
友人の見たかった景色を、自分のこの目で確かめたい。地球上でいちばん高い地点から、世界を眺めたい。そのためにまずは、次の春にベースキャンプまで行こうと思う。一緒に行かないか――と、SNSで全体に投げかけていました。
彼ほど知名度のある人でも、4月に3週間以上まとめて海外へ出て、エベレスト街道を登りたいという人は、ほとんどいなかったようです。主宰が2名、添乗員が1名、参加者は4名。なんて贅沢な。しかも飛行機代も宿泊費も食事代も含めて、全行程で70万円ほどでした。
え、なにそれ、と思いました。彼のイベントに参加する、というだけでなく、彼“と”2、3日過ごすだけでも、それくらいの価値があるんじゃないかと思っていた私には、行かない手はない誘いでした。
そのころ、ちょうど壱岐への転職を悩んでいました。これは好機だと思いました。退職の心を決め、転職の心を決めて、その間の期間を使って、エベレストへ行くことにしたんです。
現地で目の当たりにしたのは、圧倒的な大自然の雄大な景色と、社会の縮図のような搾取の構造でした。
山へ出発する前のカトマンズで、ひとりのミュージシャンに出会います。
私の人生を変えた、ミュージシャンとの出会いです。これも、不思議なほど必然を含んだ、偶然の積み重ねでした。
カトマンズの初日の夜。夕食のあと、シーシャを求めて入ったお店で、オープンマイクをやっていました。しばらくして、ひとりの人が歌いはじめた。その場にいた日本人が、私を含めて3人、はっとしたんです。「いい声ですねぇ」と、言葉を交わしました。
私は席を立って、ステージのそばで、録画をしながら耳を澄ませていました。曲は「Imagine」。それが、彼との最初の出会いです。
彼の名前は、スバン。
彼は、歌を「歌う」(do)のではなく、
「彼自身に還る」(be)ように、歌い上げるんです。
これが最後になるのが、惜しかったんです。これからも彼の歌を聴きたくて、「インスタある? 教えて」と。
そうしたら、「明日も、すぐ近くのバーで歌うよ」と教えてくれました。
それが、見つからないんです。DMをしました。「みつからないよ。どこ?」。彼が二度、グーグルマップを送ってくれて、それを現地の人に見せて場所を聞いても、どうしてもたどり着けない。ここかな、ここかな、と地図上のそれらしい場所に何度も入ってみるけれど、まったく見つからない。
あれ、本当は私に来てほしくないのかな。突然押しかけられてもね。ご縁がなかったな。
その日の深夜1時に、エベレストへ向かうため、ルクラ行きの車で出発する予定でした。20時半まで探し回って、諦めて、ホテルに帰ることにしたんです。
どこからか、バンドの音楽がかすかに聞こえてきました。せっかくだし、ちょっとだけ音楽を聴いてから帰ろう。そう思って、音に引き寄せられるように、お店の中に入っていきました。
そこで歌っていたのが、スバンでした。
腰が抜けそうなほど、びっくりしました。正直、運命かと思った。心臓が高鳴りました。
あとになってDMをよく見返したら、いちばん最初に、お店の名前が書いてありました。「h2o」と。小文字だったこともあって、私はそこに固有名詞があることに、まったく気づいていなかったんです。お店の名前がわからなかったから、地図を追ってもたどり着けなかった。
なのに、諦めて歩いていた道すがら――音楽が聞こえてくるお店は、ほかにもたくさんあったのに――引き止められるように入った、そのお店。二階にあって、狭くて暗い通路を通って階段を上らないとたどり着けない、ふらりと入るような店でもありませんでした。
そこでスバンに、不意に再会できた。それが私にとって、とても意味の深い出来事になりました。

このあと、あまり長居せずにホテルへ帰って、私はエベレストへ旅立ちます。
山の上で見たもの
エベレスト街道は、大変に素晴らしいものでした。出会う人々、特に現地の方々。景色、空気、動物たち。シェルパの方々の身体能力は目を見張るもので、心底尊敬しています。動物たちも、道なき道を行く逞しさが印象的でした。
初めての5000m級でしたから、「自分の声にどこまでも忠実に」を意識していました。ベースキャンプまで、そして帰り道も含めて、どうしても全行程を歩き切りたかったので、とても慎重だったんです。フルマラソンを走ったり富士山に登ったりした経験から、体の温存――体力というより、組織疲労をいかに抑えるか――に、とても真剣でした。
だから、他の人のペースはまったく無視して、どこまでもマイペース。基本は他のメンバーよりもずっと遅いのに、みんなが休んでいるあいだもコツコツ歩き続けて、抜かしていくような歩き方です。
少しでも暑さを感じたら、即脱ぐ。少しでも寒さを感じたら、即着る。少しでものどが渇いたら、即飲む。少しでも小腹がすいたら、即食べる。自分の体の声を細やかに聴いて、細かく対応しました。
結果、高山病にもならず、最後までかなり元気でした。カラパタールでは、着物で登頂しただけでなく、真っ暗な早朝に一人で中腹まで登って星空と夜明けを堪能したり。ベースキャンプの帰りにも中腹まで登って、太鼓の衣装やイルカパークのユニフォームに着替えてビデオメッセージを撮ったり、走り回ったり。標高5000mを超える場所です。

それでも、強い違和感があったと。
素晴らしかったんです。でも、大自然と出会った感動よりも――
こんなところにまで、ニンゲン社会の縮図が、搾取の構造が、浸透しているんだ。
正直、心に涼しい風が吹き抜けるのを感じました。
私たちは、シェルパさんを1日あたり7000ルピーで雇っていました。シェルパさんは、30kgから70kgもの荷物を抱えて、山道をときに10km以上歩くんです。それを、私たち日本人が日給7000円でやりますか。やりません。
街道には外国人のツアー客が大勢いました。シェルパを雇って「観光」をして、「余暇」を楽しんでいた。エベレスト街道は、お金と時間が十分にある人のための娯楽の場だと感じられました。現地の人は、その観光客の落とすお金を頼りに生活している。
一緒に行った仲間にこの違和感を話したら、「需要と供給が合っているんだから、搾取ではないっしょ」と、まったく理解を示されませんでした。
それでも、私には違和感でした。物価の安い場所で、「この額でも相手が喜ぶから」と、安い物価に合わせて支払う。
それでは、いつまでたっても、お互いの金銭的な力関係は変わらない。相手が、弱者のままになってしまうからです。
それでも、山での日々そのものは心地よかった。自分自身の声と一致することが、普段の生活よりも手に取るようにわかりました。私にとっては、過酷な登山ではなく、普段の生活のほうがよっぽど過酷で。山での生活はリトリートで、大変に心地よいものでした。
ネパールで見た動物と人間の関係が、理想に近かったそうですね。
日本では「野犬は危ない」と言われるでしょう。でもネパールには、大量の野犬がいました。そうして、みんな穏やかで、満たされていた。車が通るような道路の上で、安心しきって寝ているんです。轢かれるなんて、思っていない。
実際、ネパールの街中の運転は相当怖いです。人もスクーターも車も、無秩序にゴーイングマイウェイ。かなりの至近距離で、縦横無尽に行き交っている。そんな世界で、犬たちは安心しきって寝転がっているんです。
飼い犬も、barn cat のように、好きに行ったり来たりしながら、拠点を「飼い主の家」にして暮らしています。「今どこにいるの?」「わからない」。そんなことは日常茶飯事です。つながれている犬もごくまれにいますが、ほとんどの犬は首輪もリードもなく、ルンルンとわが道を歩いていました。
エベレスト街道の家畜たちは。
またちょっと違います。彼らは「家畜」で、人間に利用されています。ただ、人間が搾取するばかりかというと、そういうわけでもなく、お互いに win-win な関係に感じました。
人間も家畜を利用する。家畜も人間を利用している。
お互いに「生きる」という目的のために生きていました。ペットなどと比べれば、もう少し厳しい世界です。毎日働いていますし、ときに命を奪われることもあるでしょう。
それでも彼らは、つながれることなく、ただ黙々と、「これが生きる道」と言わんばかりに、人間とともに働いて生きていました。
人間の多くも、実際には完全に自由ではありません。それでも、自分の意志で決めたい範囲が自分で決められれば、「自由」だと感じるでしょう。家畜の動物たちも、そんなふうに見えました。
彼らにとっては、「野生で、人間なしで生きる」という選択肢すら、頭の中にないのだと思います。その意味では不自由です。ただ、彼らはつながれてはいません。逃げられないとわかっているから、逃げないのかもしれない。人間からの圧があって、歩き続けているのでしょう。
それでも、苦しそうにも、つらそうにも見えませんでした。彼らは、黙々と「生きて」いました。
ネパールで出会った動物たちは、多くの場合、ニンゲンからのコントロールが最小限でした。
そうして、みな、とても穏やかでした。
気が立っている個体を、見ませんでした。とはいえ、家畜の子たちは「フレンドリー」とも違います。もっともっと、きっちりと自我を持って、自分のスペースを持っているような印象でした。あくまで印象ですが。
声を、もう一度聴く
帰る数日前に、スバンにDMしました。何日と何日の夜はカトマンズにいる、そのあと帰国する。もしその日に歌う予定があったら教えてほしい、と。彼は「予定がわかったら連絡する」とだけ返信して、それきりでした。
カトマンズ最終夜の前の晩、もう一度DMしました。明日が最後の夜になる。もし歌うなら連絡ちょうだい、と。歌わないならそれでもまったく問題ない、ただ帰国するだけだから、と。
彼は、最終夜に monkey tail に行く、と返信をくれました。何時に来るとは言われないままでした。その晩、私たちのグループは、なぜか偶然その monkey tail を選んで夕食をとって、それぞれ解散しました。最初に彼の歌を聴いた、あの店です。
「今 monkey tail にいる。もし来る予定がないなら、そろそろ帰ろうと思う」と送ると、返信が来ました。
「今から行く」
しかし、待てども待てども、彼は現れません。1時間近く経って、夜の10時を過ぎたころに、「そろそろ帰るね」と送ったら、「今いるよ」と。ふと顔を上げると、店の入り口に、彼が立っていました。
オープンマイクで数曲。私は彼の目の前の席を陣取って、録画しながら、その声を堪能しました。気分がよくて、地元のウィスキーを飲んで、飲んで、飲みすぎて……その夜の記憶は、ほとんど残っていません。
ビデオ通話でした。「今晩も歌うんだ。もう一晩、カトマンズに残っていかないか?」
私は、ものすごく残りたかった。ものすごく、残りたかったんです。次にいつ彼の歌声を聴けるか、わからないから。しかも――ここだけの話ですけれど――前の晩のことは、ほとんど記憶になかった。つまり、彼の歌声が、記憶に残っていなかったんです。
何度も何度も、「残る」と言いそうになるのを、必死でこらえました。追加の飛行機代がかかるから。子どもたちが待っているから。夫が子どもたちを見てくれているから。一日も早く、帰らねば。
それでも、朝食のあいだも、荷造りのあいだも、空港に向かうバスの中でも、チェックインカウンターでも、保安検査を抜けた待合室でも。
「まだ引き返せる」「まだ今なら引き返せる」何度も、何度も、引き返しそうになりました。
飛行機が飛び立つと、ようやく、あきらめがつきました。もう戻れない。日本に帰る以外に、選択肢はない。
そうして、前の晩に録画したものを、見返したんです。
そこで私は、彼の声に、もう一度出会いました。芯から震えました。なんという声でしょう。なんという特別な声でしょう。体中の細胞が、奥底からぞわぞわと波のように震えて、歓喜の声をあげているようでした。
まるで人生で初めて聴いたかのように、
私は彼の声を再発見して、彼の声に、一声惚れしたんです。
「この声を世界に届けたい」と思ったのは、いつですか。
最初の夜です。
だからエベレストから戻ってきたときには、もう音源をくれと頼んでいます。日本で誰かにつなぎたい。紹介するための音源がほしい、と。
帰国してすぐにも、次々に提案しました。このアプリで公開したらどうか。YouTubeチャンネルがないなら、私がつくるよ。録画したものを公開するのはどうか、と。
彼のほうも、「スポンサーを探している」と言っていました。私はスポンサーにはなれないけれど、絶対に見つけたいから、音源をちょうだい。そんな会話をしていました。
彼とつながり続けている理由は、明確です。ひとつは、これからも自分が聴きたいから。
もうひとつは、この声がローカルにとどまっているのは、世界にとって損失でしかないから。
The world needs to find him.
誇張なく、心の底から、そう思ったんです。
帰国を、やり直す
体調を崩しました。というより、エネルギーが回らない状態でした。
私は、内側と表現のズレに、めっぽう弱いんです。弱いから「誠実なわがまま」と自称しているくらいで、自分の感覚に忠実にしか生きられない。
その私が、自分の声を強く抑えて、理屈で自分の体をコントロールして、帰国した。
体と心が分離して、体だけ帰国して、心がネパールに置いてきぼりになったような感覚でした。自分の身体じゃないようでした。
食べ物も飲み物ものどを通らず、垂れ流すように下痢が続きました。体に力が入らない。意識をどこかに集中して置いておくことも、できませんでした。
それでも子どもの保育園の行事などが目白押しで、なんとか体を引きずりながら、自分の責務を終えていきました。
だめだ。「帰国」が未完了だ。そう感じたんです。
次の仕事が始まるまでの2週間が、最後のチャンスでした。仕事が始まってしまえば、しばらくネパールへ行くことはかなわない。でも、このままの状態では、自分はまともに生きていられないし、パフォーマンスも底辺です。
「未完了」を完了するため。帰国をやり直すため。急遽チケットを買って、もう一度ネパールへ行くことにしました。
自分が生きるために、行かなければならなかったんです。
二度目のカトマンズは、どんな日々でしたか。
スバンと再会して、毎晩ライブで彼の歌を聴いて、ライブのあとは、彼のほかに2人を加えた4人で、朝まで夜のカトマンズを堪能しました。私は基本的に座っていただけですけれど、お互いにとても親しんでいました。
まるで、ニューヨークのミュージシャンのリアルな世界のようで、映画の中のような毎日が、とても楽しかった。この5日間で、ネパールに大事な友人がたくさんできました。今でも、彼らとつながっています。
その音楽の現場で、気になったこともあったそうですね。
アマチュアのミュージシャンたちの待遇の悪さです。音楽だけで生活が成り立つわけもなく、レストランに搾取されているような値段設定の中で、それでも音楽活動を続けていました。お金がないために病院に行けず、悪化していくしかない人も見ました。
悲しかったです。
日本に帰るとき、一度目とは違いましたか。
違いました。私は、自らの意思で、納得して帰路についていました。
心も一緒に、飛行機に乗りました。
声が世界に届くまで
その後もネパールへ通い、声の向こうにある土地や人との関係が広がっていきました。
ネパールという土地と人に、自分のルーツやアイデンティティを感じて、魂が引き寄せられるようでした。彼を通してたくさんの人と知り合って、今はネパールに多くの友人がいます。
そこで出会ったのは、豊かになることを諦めて、その日暮らしをする若者たちでした。みんな、命のエネルギーに溢れていました。
「かわいそう」と感じたのではありません。でも、才能や能力、魅力という宝物が、世界とうまく接続できなかった――それだけで、原石の光を世に放てない。そのことに、切なさともどかしさを感じました。
スバンさんのために、何ができるか。
彼の歌声に心を動かされ、救われる人は、世界中にたくさんいるはずです。でも、彼自身も、私も、それを世界に届けるやり方がわからなかった。
ひとつは、彼が安定して収入を得ること。もうひとつは、彼の歌が、必要な人に届くこと。そのためにどんな手段があるだろうと、ずっと考え続けています。
もちろん、これは彼自身の人生の課題で、私が背負うものではありません。でしゃばらないよう、意識しています。それでも、プロデュースの力があれば、疑いようもなく彼の力になれる。その力をつけたいと、ずっともがいてきました。
「彼は、世界から発見されるべき才能と魅力をもったシンガーだ」――それが、いちばん最初の、いちばん根底にある動機です。
あれから1年半。届け方は、見えてきましたか。
まったく見えません。
社会につなごうとすると、社会のレールに乗らなければならない、という感覚があるんです。私も苦手ですが、彼は特に苦手で。
自分の出せる金額の限界に、何度も唇を噛みしめました。
生まれて初めて、「稼げない」自分に対して、罪悪感と無能感を、真髄まで感じさせられました。
だから2月に、意を決したんです。自分のポリシーだとか理想だとかは、全部いったん横に置いて、まずキャッシュを稼げるようになる。自分の理念にぴったり沿っていなくてもいい、まずはマネーゲームを、誠実に攻略するんだ、と。
その半年は、どうでしたか。
本気で取り組んで、結果どうなったか。「ビジネス」の文脈で、ジャッジされ続けました。悪い意味ではないんです。善意のもとで、ビジネスの常識や共通認識において足りないところを指摘され、アドバイスされ続ける日々でした。
疲弊しても諦めずに、トライして、トライして。口を開けば、必ず痛い目を見る。
それで8月に、燃え尽き症候群のように、ぷっつんと、動けなくなりました。ビジネスの文脈に果敢に挑戦する気力も体力も、一度尽きてしまった。灰になってしまったんです。
それでも、諦めるわけにはいかない。だから、できる範囲でできることを、ひとつ、ひとつ、やっています。
それが、このZINEであり、この人生の棚卸しです。
ZINEは最初、ご自身の2ページだけの予定だったとか。
そうなんです。ところが締め切り当日に、別の方がつくったページに、こんな記述を見つけました。
――僕は漫画に命をつないでもらった。もう生きることをやめたい、というところまで来ていたときに、二つのアニメに出会った。どうせ死ぬなら、次の週の回を見てからにしよう。それを繰り返しているうちに数か月がたって、気がつくと、体勢を立て直せていた。
それを見たときに、思ったんです。
スバンの声も、まさにこれだ。
彼の声を届けたいと思い続けたこの一年、あなた自身には何が起きていましたか。
私にとって、人生でいちばん生きづらい年になっています。体の不調を抱えながら、それでも前を向いて、挑戦を続けてきました。
生まれて初めて、「自分の美」に気をつかい、「自分の体をいたわる」ことに時間とお金を使って。なんとか、今日という日に、小さな希望の灯を握りしめてこられました。
そのともしびが、彼の声でした。
だから、ZINEに載せたいと思ったんです。自分の命をつないだ漫画を世界に届けようとしている人を、見よう見まねで。私の命をつないだ、スバンという人と、その声を、世界に届けたい。
その思いで、締め切りの最終日に一気につくりあげたのが、あの2ページです。