第三部 現場で、家族として

CHAPTER 10

理想だけでは動かない

アメリカ・熊本・九十九島

卒業後、渡米して馬の病院で働かれています。

就労ビザを取って、住み込みで働きました。夜中も数時間おきに入院棟に通って、バイタルチェックと投薬。週1日の休みは犬猫の病院に通って、腕を磨くことに徹しました。

「あのとき、メノックの命をつなぐ道はなかったか」。その問いの答えは、アメリカで見つかりましたか。

お金の許す限り、最後の最後まで、人も馬も諦めない。その最たるものを、経験させてもらいました。

Stripper という馬です。メノックのときに消化しきれなかったものを、「最善を尽くす」という形で、彼を通して経験させてもらいました。

どんな馬だったんですか。

メノックを思わせる、とても賢くて、人間に信頼を寄せている馬でした。飼い主さんとの信頼関係は、ひと目でわかりました。

その彼が、ある日突然、骨折してしまったんです。馬房の中での出来事で、本当に不運としか言いようがなかった。どうして折れたのか、最後まで、はっきりした説明はつきませんでした。

手術は無事に終わりました。ただ、折れたのが前肢でした。前肢は、後肢よりも体重の負担が大きいんです。リハビリの途中で、合併症の蹄葉炎を発症してしまいました。

そこから、血管造影をしたり、最先端の治療をしたり。今の医療でできる限りのことを、尽くしました。入院中は、飼い主さんも私も、治療だけでなく日々のケアを支えて、どうにかまた元気になってほしいと力を尽くしました。

そして、最期の日が来た。

彼は入院を乗り越えて、家に帰ることができたんです。でも蹄葉炎は、じわじわと悪化を続けて、立ち上がることもままならなくなっていきました。

ある日、往診で治療をしている最中に、彼は、その鼓動を止めました。

人の都合で治療に制限をかけることが、まったくありませんでした。たとえば、お金や人員を理由に、というようなことが。最善を尽くすという形で彼の治療に携われたこと。最後の瞬間に立ち会えたこと。飼い主さんと、心を交わせたこと。メノックのときに、自分の力では果たせなかったことを、もう一度やり直させてもらったようでした。

彼を見送るのは、とてもつらかった。

でも、最後の最後まで、人も、馬も、諦めなかった。

そのことが私にとって救いになって、次に進むきっかけになったのは、間違いありません。たぶん、Stripper を飼い主さんと一緒に見送ったあのときに、自分の中の未消化だった部分が、昇華したんだと思います。

ビザは1年間。いったん帰国して取り直すまでの半年ほどをどう過ごすかが、課題でした。研修医1年目の駆け出しを、数か月だけ雇ってくれる現場なんて、簡単には見つかりません。そんなときにご縁があったのが、熊本市動植物園でした。

熊本では、通訳の仕事を通じて、今の夫とも出会います。

彼は当時、京都大学の熊本サンクチュアリというチンパンジーの施設で、研究員をしていました。仕事で彼の講演を通訳したのがきっかけです。

ハンガリー出身で、いくつもの国を経てアメリカに渡り、今はアメリカ人。30歳から独学で英語を学び、60歳を目前に国際結婚をして、5人の子宝に恵まれました。彼の人生を見ていると、「遅すぎる、ということは何もない」と思えるんです。

年の差は33歳です。

水族館で、昔の問いに戻る

馬の病院に戻る予定から、日本でキャリアを続ける道へ変わりました。

動物園の仕事が波に乗って、再渡米ではなく日本に残ることになりました。任期が満了して、次にご縁があったのが九十九島水族館です。イルカ同士のジャンピングキャッチボールやオーバーヘッドキックが見られる、日本で唯一の施設でした。

そこで、葛藤が深まっていった。

現場の人たちは本当に、動物たちのことを想って、日々努力を重ねているんです。それでも――動物園や水族館は、本当に存在しなければいけないものなんだろうか。動物たちを囲って、人間の都合でそこで一生暮らしてもらう。それを正当化するだけの意義が、本当にあるのか。

特に、矛盾や葛藤を隠して、耳ざわりのいい言葉で一般の方を「教育」するという姿勢や、そもそも矛盾を自覚しないまま、崇高なことをやっているかのように邁進することに違和感があって、苦しくなりました。

イルカの現場は、他のどの動物よりも神経質に、全力で管理されています。消毒、定期的な血液検査、いろいろな検体を顕微鏡で見て、病態を推察していく。そこまで細かくやっても、罹患率も死亡率も、明らかに他の動物より高いんです。

海の真ん中で暮らしているはずの生き物を、陸のそばの小さな空間に囲って、「健康に、元気に、楽しく暮らしてください」というのは、無理なのではないか。イルカ飼育を、肯定しきれなくなったんです。

どんなに医療が進んでも、海の真ん中で広々と生きる動物を、陸のそばで小さく囲うことは、イルカにとって負担なんだと思います。陸の近くでさらされる微生物は、外洋とは大きく違っているはずです。深さも、広さも、足りない。群れの社会性も、保ちづらい。

イルカを飼育するということは、
イルカに負担を強いない形ではできない。そう悟りました。

水族館を離れたとき、もうイルカの仕事はしない、と思っていましたか。

思っていました。毎日、苦しかったんです。

狭いプールの中で一生を過ごすイルカに、やっぱり問いかけてしまう。あなたは、ここにいたい? ここで生きて、死ぬことを、幸せだと感じる?

毎朝毎朝、「生きているかな」「具合が悪くなっていないかな」と、不安な気持ちでプールを覗き込む。元気なのが当たり前だと思えない。不健全でした。

「生きていてくれて、ありがとう」「元気でいてくれて、ありがとう」祈るような毎日でした。

生殺与奪の権を握っている、責任の重さ。

そして、お客さんには臭いものにふたをして、きれいごとを並べる。それが、自分の本音と一致しない。それが、心底つらかった。

その苦しさは、働き方への思いにもつながりました。雇われている身では、必ず、自分の本心に嘘をつかなければならない場面がある。それが耐えがたくて、「雇われない働き方をしたい」と強く思うようになりました。

年の差婚なので、いずれはひとり親になる可能性が高い。お金に余裕のある暮らしがしたかった。

いろいろな思いがあって、水族館を辞めたあと、収入の柱を増やすために、さまざまなことに挑戦してきました。

家族と社会をつなぐために

水族館を離れてから、家族で再びアメリカへ渡りました。

夫の新しいプロジェクトがアメリカで立ち上がることになって、渡米しました。私は犬猫の救急病院で経験を積み、夫のチンパンジープロジェクトでは、池とそこに住むコイたちの管理を、ボランティアでしていました。

でも、人生はそう簡単には進みませんでした。プロジェクトは立ち上げメンバーが次々に解雇されて、最後に残った夫も、職を失ったんです。私自身は働いていて、月に20万円以上の手取りがありました。それでも、医療費や保険のことを考えると、家族を守るには到底足りませんでした。三男を妊娠していて、このままでは子どもたちを守り切れないと、日本への本帰国を決めました。

家族を支える経験の中で、価値を社会へ届ける力が必要だと感じたんですね。

夫は、生き様も、チンパンジーに関わる技術や感性も、本当にオリジナリティがあって、実践的で、夢や可能性を与える力を持っています。

その価値を、社会に届く形につなげる力が私にあればよかったんですが、私自身、人とつながるのは得意でも、お金の流れを設計したり、「利益」の形に変換したりするのは、得意ではないんです。

プロデュース力とは、価値の翻訳力なんじゃないかと思っています。

原石を磨いて、宝石だと気づいてもらう力。
隠し絵に輪郭を与えて、浮かび上がらせる力。
そこに「在る」ものを「有る」と見えるように、相手に眼鏡を渡す力。

そういう力があったら、価値を差し出す側も、必要としていた価値を受け取る側も、どちらも幸せだと思うんです。