CHAPTER 09
「あなたは、どうしたい?」
大学・保護犬たち
大学時代、保護犬たちと暮らしていたそうですね。
幸緒くんは、札幌の動物管理センターから保護された、黒パグの男の子です。大学2年のときにうちに来たとき、すでに白髪まじりのシニアでした。とても賢くて、こちらの意図を察してくれる子でした。
幸緒くんを通して……いえ、幸緒くんの命を代償に、とても大切なことを学びました。
何があったんですか。
体に、小さな疣を見つけたんです。キラのことがあったので、小さな変化も見逃さない、早期発見・早期対策で小さいうちに刈り取る、と思っていました。すぐに病院で調べてもらうと、「肥満細胞腫」。癌の一種でした。目の前が真っ白になりました。
手術に踏み切りました。たった一つの小さな疣のために、周りを大きく切り取る、彼にはとても負担の大きな手術です。それでも彼はしっかり回復して、またにこにこと暮らしていた。
手術のあと、抜歯もして、ようやく落ち着いた頃に、また一つ見つかりました。それを外科で取ろうとしている最中に、さらにもう一つ。そこで、外科での摘出は断念して、抗がん剤に方針を変えました。
ただ「無くしたい」ということではないんです。肥満細胞腫は、普段は何もしないこともある。でも、何の前触れもなく自壊することがあって、そうなると全身に症状が出て、命に関わることがある。だから、恐れました。爆弾を抱えたままの生活は怖い、何とか叩かないと、と。
グレードは3だったと記憶しています。実際、ほどなくして、次々に転移していきました。S先生という、当時、青森の大学で講師をされていた先生に相談して、日本では未承認の、新しい抗がん剤を輸入して投与することにしました。
計画を立てて、幸緒くんには入院してもらい、計画的な投与が始まりました。最初は、何もありませんでした。
ある夜中、ふと目が覚めて、意識が追いつく前に、体が勝手に玄関へ向かって、外に出ようとしていました。なぜか体が、幸緒くんのところへ行こうとしていたんです。そんなことは、それまで一度もありませんでした。
あれ、何をしようとしたんだっけ? と布団に戻りました。翌朝、彼が入院している病棟へ行くと、一晩で容体が急変して、ICU――酸素室に入っていました。驚くほど白血球が落ちていました。抗がん剤の副作用です。試験期間中だった私は、入院している彼のケージの前に居座って勉強しました。でも治療の効果は見られず、少しずつ、少しずつ、彼の命のエネルギーが薄くなっていくのを感じていました。
ある日の夕方、「連れて帰ります」と。治療よりも、彼との時間を選びました。
迷いがなかったと言えば、嘘になります。酸素室から出したら、彼は苦しくなってしまうはずでしたから。でも、一人にしちゃいけない、という強い確信がありました。
あのときは、理屈よりも、直感で物事が進んでいたように思います。連れて帰るというのも、「判断した」というより、それ以外に選択肢がなかった。自然とそうなっていた。そういう感覚が残っています。
その夜、彼は突然立ち上がりました。どうしたの、と覗き込むと、私の唇にキスをして、そのまま、旅立ちました。
お別れの挨拶だったのかな、と感じてしまいました。そう思いたかっただけかもしれません。でも彼は本当に、自分の意志で歩みを進めるように、穏やかに、この星での幕を下ろしました。
思い返すと、本当に不思議な体験です。
でも、どこにも誇張はありません。
その経験が、治療に対する考え方を変えた。
私が小さな疣を見つけて大騒ぎするまで、彼はとても元気に暮らしていたんです。彼にとって疣は、不快でも、暮らしの質を下げる異物でもなかった。少なくとも、あのときは。
リスクは、リスクでしかありません。グレードによっては、悪さをせずに、何年も一緒に過ごせることもある。
今になって振り返れば、あのときの判断は、あの状況では妥当だったのかもしれません。それでも──
「あの抗がん剤を、あの容量で、あのスケジュールで行ったことは、本当に最善だったんだろうか?」
答えのない問いなのはわかっていても、「抗がん剤を使わなければ、もっと長く、元気に過ごせていたのではないか」という一抹の不安に、飲み込まれそうになりました。
今でも、答えは出ていない。
絶対解がないなかで、絶対に「最善を選びたい」と強く切望し、治療の是非やその内容を決断しなければならない。しかも「最善」とは、誰にとっての最善か。それひとつ変わるだけで、答えが揺らぐのです。誰かにとっての最善が、誰かにしわ寄せとして影響することもある。
きれいごとではない中を、妥協したくない、と全力でもがき進んでいく。そんな泥臭い毎日を、積み重ねてきました。
「あの時に、抗がん剤を選ばなかったら、もっと長い時間、元気に過ごせていたのだろうか」
「あの時に、外科手術や抗がん剤治療をしたことを、幸緒くんは納得しているだろうか」
「本人の不快を解消するためではなく、“私の”恐れを解消したくて、治療方法を選んでしまったのではないだろうか」
浮かび上がる問いとともに、生きてきた。
このときから、「治療」に対する考え方も慎重さも、まったく違うものになりました。
次に迎えたのが、股G。
幸緒くんに出会わせてくれたのは、パグの保護団体でした。幸緒くんに会わせてもらった恩もあって、目の前にパグがいるなら、愛護センターから引き出す。殺処分だけは絶対にさせない。それが自分の責任だと思っていました。
近くの動物愛護センターに、老いたパグが収容されているのを見て、見て見ぬふりはできませんでした。本当は、里親さんを探すために引き出すつもりだったんです。でも問い合わせると、「終生飼育をされるご本人でないと引き出せません」と言われた。
そこで、とっさに「私が終生飼育します」と。
理屈で考えたわけではないんです。
え? 里親じゃないと引き出せないの?じゃあ、ええと、私が責任を持って、終生飼育します。
そう言って、サインしてしまった、という感じでした。引き出すことが目的だったので、その目的のためには、自分が里親になる以外の選択肢が閉ざされた。そういうことだったんだと思います。
股引をはいたおじいさんみたいだったので、股G。彼は、すべて知っているかのように、迎えに行ったいちばん最初の日から、ごく当たり前に、私のあとをついて歩いていました。「飼い主さんが迎えに来てくれた!」という顔で。胸がきゅっとなりました。迎えに来たよ、って。
股Gは、健康問題の宝庫だったとか。
歯がない、気管虚脱、精巣腫瘍、ドライアイ、白内障、膝のトラブル……。でも、実にひょうひょうと生きていたんです。「正解」からの減点法ではなく、生きているだけで丸儲けの、加算法に見えた。“問題”“トラブル”として見ているのは、人間の側――私だけだったように思います。
幸緒くんのことがあったので、股Gには、本人が困っているように見えない限り、あるいは一時の負担を越えれば明らかに暮らしがよくなると確信できる場面以外では、積極的な治療はせずに、見守りました。
彼は、私が獣医師の資格を取って間もない頃、一緒に寝ているときに、その時を迎えました。最後までひょうひょうと、彼らしく生きて、閉じました。
幸緒くんと股Gのほかにも、多くの動物を迎えました。
ほかにも、愛護センターから引き出した仔犬、実験動物として生まれたモルモット、一時保護した仔犬たちがいました。愛護センターにいた子たちも、研究室にいたモルモットも、人間の介入ひとつで、簡単に、死んだり、生き延びたりするんです。
動物たちの命は、人間に握られている。その構造を、とても重く受け止めています。
幸緒くんの抗がん剤を提案してくれた先生とは、その後も不思議なご縁が続いたそうですね。
S先生です。あのあと、私がオンラインで、保健所から引き出した仔犬の里親さんを探していたことがありました。匿名でやっていたんです。そこへ里親希望を送ってこられたのが、S先生でした。その子は、先生のご両親のもとへ里子に出ました。
さらにそこから10年ほどして、動物園と水族館で働いていた頃、S先生が、私の所属していた九州の動物園・水族館の獣医グループと関係を育まれていて、再会したんです。
なんとも不思議なご縁の続く先生です。