CHAPTER 07

言葉が、体から離れた年

高校・アメリカ留学

高校時代に1年間、アメリカへ留学されています。

ホストファミリーのJezorski家は、今も「American family」として、本当の家族のようにつながっています。異文化から来た私に、わが子のように愛情をもって、辛抱強く関わってくれました。三姉妹の末っ子だった私が、初めて三人きょうだいの長女になった1年でもありました。

渡米したのがちょうど誕生日だったので、16歳の誕生日が2日ある、という不思議な体験もしました。

この1年で、言葉との関係が大きく変わったそうですね。

両親は「年上を敬う」ことを大切にする人たちで、末っ子の私は、家でいちばん身分が低い――と、当時は感じていました。汚い言葉を使ったら、私のほうが負けてしまう。それで、いかに相手を理詰めで追い詰めて黙らせるか、という技を磨いたんです。正論がすらすら出てくる。口喧嘩では負けなしでした。

でもアメリカでは、聞き取れても、文法も語彙もなくて、とにかく喋れなかった。そんな私を、年上の日本人留学生に鼻であしらわれたように感じて、悔しくて。負けず嫌いなので、そこから1年間、完全に日本語断ちをしたんです。話さない、聴かない、読まない、書かない。

この1年で、英語を最大限に吸収したい。その一心で、自分にルールを課したんです。あの頃は、そういうところがストイックでした。今は流れに任せるところがあって、意識してルールを固める、ということは、あまりしなくなりましたけど。

日本人に日本語で話しかけられても、英語で返しました。そうしたら、思考回路が英語で回るようになったんです。訳すのではなく、英語で浮かんだことを、英語で話せるようになった。

胸を張って帰国したら、事件が起きました。日本語が話せなくなっていたんです。読めるし、聞いてもわかる。でも、英語で浮かぶ文章を日本語に訳さないと、言葉が出てこない。

「うん」の一言を言うために、
意識して、自分の筋肉を動かさなければいけなかったんです。

まさかそんなことになっているとは思ってもみなかったので、自分でもびっくりしました。

言葉が体から離れていくのは、寂しいことでしたか。

寂しさは、ありませんでした。そのときは、何が起きているのか、構造的なことには気づいていなかったんです。

それきり、昔のように理屈がすらすら出てくる回路は戻りませんでした。あとになって振り返ると、こういうことだったんだと思います。

日本語も英語も、体の一部ではなくなった。
体感に輪郭を与えて、世界とつながるための「道具」になったんです。

言葉以外で世界を受け取る、今の私のつながり方は、このあたりから形づくられたように感じます。

……ちなみに、アメリカナイズされたのは頭の中だけではなくて。体重も見事に10キロ増えて、見た目がすっかり変わってしまって。成田空港まで迎えに来てくれた家族に、私だと気づいてもらえずに、素通りされました。

離れていても、気にかけていた命

その留学中、大切なインコのプルプルとの別れもありました。

大切な相棒のセキセイインコ、プルプルを家族に託しての留学でした。母には、「今回行かなければ、もう行かせてあげられないかもしれない」と言われていて。自分の成長を優先したんです。

渡米して1か月もたたない頃、なぜだか、とても嫌な予感がしました。すぐ家族にメールして、プルプルは大丈夫?と聞きました。家族は私の心の負担を考えて、黙っていようとしていたそうです。何かあっても大丈夫だから、と説得して、ようやく「実は……」と話してもらいました。私が渡米して間もなく、旅立っていたんです。

あの胸騒ぎは、もしかしたらプルプル本人というより、家族の様子を、体が察知したのかもしれません。

そのとき、どんな気持ちが残りましたか。

プルプルは、私以外の人にはあまり慣れていなかったんです。最期、彼女は安心できていただろうか。不安の中で逝くことになってしまっただろうか。

深い罪悪感と、後味の悪さが、残りました。今でも、彼女のことを思うと、割り切れない、ぐちゃぐちゃのままの感情が、ちらりと姿を現します。

ただ、あのとき行かなければ、次に留学できる約束はなかった。だから、留学そのものを後悔したことは、ありません。

プルプル、ありがとう。