CHAPTER 04
どちらの言い分も、わかる
小学生から中学生
相手の立場を想像してしまうことは、人との関係でも起きていましたか。
誰の立場にも思いを馳せてしまうんです。誰の言い分も理解しようとするし、理解できてしまう。
小学生の頃、女子の二つのグループが対立していて、どちらも私を取り込もうとしました。それぞれの言い分を聞くと、Aの言い分も、なるほどと思う。Bの言い分も、それは理不尽だったね、と思う。だから、どっちも正しいし、ここは仲直りしようよ――と間を取り持とうとした途端、どちらからも「敵」認定されてしまいました。
敵を共有できなかった時点で、味方ではない、と判断されたんです。驚いて、心底悲しくて、どうすればいいのかわからなくなって、逃げるようにその場を離れました。
敵も味方もなく、ただオープンに対話をすることが、時にとても難しい。その現実に、初めて直面した出来事でした。
そのあと、人との関わり方は変わりましたか。
それが、変わっていないんです。今も変わっていないし、変われないんだと思います。
「誠実であること」に、とても貪欲なんです。
もちろん、私の視点での「誠実」なので、必ずしも相手に寄り添えていないかもしれない。でも、自分の心からずれる、ということが、苦手なんだと思います。
自分の「正しさ」がひっくり返る
中学生の頃には、人との関わり方について、もう一つの発見があったそうですね。
乗馬クラブで、ある方の乗っていた馬が、私の馬に突っ込んできたことがありました。とても危なかった。その方はそのあと落馬してしまったので、もちろん心配はしました。でも「巻き込まれた私」という構図で見ていた私は、私への気遣いの言葉がひとつもなかったスタッフに、不満を持ったんです。
感情ではなく、本当に冷静に、多面的に、自分の理屈が正しいことを確かめていました。それなのに、逆に注意されたんです。「考え直したほうがええで」と。
なんで自分が叱られなあかんのや、と、不満でいっぱいでした。当時20歳くらいの先輩に愚痴ると、「あやかちゃんが悪くないと思うなら、謝らなくていいんじゃない」と、一言だけ返ってきました。
彼女は、どちらが正しい、という立場ではなかった。そうか、どっちの側にもつかない、ということもあるのか――言葉にはならなかったけれど、まったく想定していなかった位置から返事をされたのは、ひとつの大きな発見でした。衝撃だった、と言ってもいいくらい。今こうして話すまで、あまり意識したことはなかったんですけれど。
その返事が意外で、私はそのあともずっと考え続けました。本当は、私は悪くないって言ってほしかったんです。でも、見る人によってはスタッフの意見が正しく見えるのかもしれない。何度も、何度も、あのときの状況をなぞりました。
そしてある瞬間、ひっくり返ったんです。「なるほど。スタッフさんの言っていた意味が、わかった!」って。
どんなに冷静に、慎重に「正しい」と確かめたことでも、今の自分に見えていない側面があれば、ひっくり返ることがある。
それを、実体験として確信しました。絶対解はない。自分が正しくても、相手も正しいことが多い。どんなに確信している信念も、ひっくり返る可能性がある。それが、私の新しい“信念”になったのかもしれません。
どんなに今は確信を持っていることでも、ひっくり返るかもしれない。その余地を、いつも残してあるんです。
その姿勢は、人を嫌いになることの少なさとも関係していますか。
そうなんです。私は、「嫌い」が驚くほどないんです。「苦手」や「不快」はあります。でも、どんなに嫌なことをされても、「嫌い」や「憎しみ」にはならない。
たぶん、相手の側の視点にも、無意識に立ってしまうからだと思います。私にはわからない事情があるのかもしれない、と。
「誰もが、一生懸命、よく生きようとしている」。
なぜかはわからないけれど、言葉になる前の、確信のようなものがあるんです。
だから、ひどいなぁ、傷つくなぁ、と思う人がいても、「嫌い」にはならないんです。